【アラベスク】メニューへ戻る 第19章【朝靄の欠片】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)

前のお話へ戻る 次のお話へ進む







【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第2節 再びボロアパート [16]




 ゴロンと床に身を横たえる。カビ臭いラグマット。きっと、一度も干してはいないし、掃除機もかけてはいない。でもあちこちサビたベランダなんかに干したら、きっとベランダが壊れてしまうだろう。以前の美鶴ならなんとも思わなかったが、高級マンションでの暮らしを経験してしまったからか、今は鼻の奥に強い刺激を感じる。それでも、起きようとは思わない。身体がひどく重い。
 瑠駆真の事も、聡の事も、里奈の事も母の事も、進路の事も、何もかも忘れて、ただ霞流さんの事だけを考えていれればいいのに。このままココでこうやって寝ていれば、勝手にすべての問題が解決してしまって何にも悩まずに生活できる、なんて夢のような出来事が迎えにでも来てくれればいいのに。だとしたら、カビ臭いカーペットなど何でもない。
 疲れたな。でも眠くはない。
 寝ているワケではないのにまるで夢でも見ているかのようなフワフワとした感覚。開いているのか閉じているのかもわからない中途半端な目をしたままトロンと横になっていた美鶴には、扉の音すら夢ではないかと思えた。
「あら、ずいぶんと痩せたトドね」
 第一声がそれ。
 ユンミは、床にだらしなく横たわる美鶴を無遠慮に跨ぎ、そのまま奥の洗面台へと向かう。
「まったく、健全な青少年がこんなところでだらしない。外はイイ天気よ。散歩でもしてきたら?」
「だったらユンミさんがしてくれば?」
「アタシは徹夜で眠いの。だいたい、私と青空って、似合うと思う?」
「あんまり」
「でしょ」
 やがて浴室からシャワーの音が響き、同時に鼻歌も聞こえてきた。ご機嫌のようだ。ダーツの成績が良かったのだろうか? イイ男と楽しい思いでもしてきたのだろうか?
 霞流さんにでも、会えたのだろうか?
 突然、目が冴えた。
 頭を拭きながらタオルだけを無造作に巻いて出てくるユンミ。
「霞流さんに会えました?」
「ううん」
 言って、またしても乱暴に美鶴を跨ぐ。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ベッドへ向かう。ドサッと腰をおろしてから、軽快な音を立てて開けた。
「うーん、美味しい」
 満足そうな声。
「昼間っからビールですか?」
「だって暑いんだもん。外、結構暑いよ。これから梅雨かぁ。やんなるなぁ」
 言いながら喉を鳴らす。半分ほど飲んだところで、テーブルを引き寄せ、缶を置いてからハンドバックを(まさぐ)った。煙草を取り出す。一本加えて火を付ける。フーッと長い煙を吹き出すと、そのまま灰皿に乗せ、ふたたびバックの中身を漁った。出てきたのは小さなポーチだった。口紅を取り出す。ブラシも使わずそのまま塗った。スッピンに紫がケバケバしい。
「化粧はしないのに、口紅は塗るんですか?」
「そうよ。文句ある?」
「いえ」
 そういう化粧の仕方もあるのかな? 今度井芹(いぜり)さんにでも聞いてみよう。
 快活な女性を思い浮かべると、どうしても霞流慎二へと繋がってしまう。
「どうしてんのかなぁ」
 呟く美鶴を、呆れたように見下ろす。
「寝ても醒めても慎ちゃんね」
「そういうユンミさんは違うんですか?」
「アタシと慎ちゃんは強い信頼関係で結ばれているのです。慎ちゃんは必ずアタシのところへ戻ってくるワヨ」
 まるで、別の女性のところへでも浮気してしまったみたい。
 ぼんやりと思いついたような考えなのに、考えた途端、血の気が引いた。
 今この瞬間、霞流さんはひょっとしたら別の女性と一緒に居るのかもしれない。
 智論さんとか。
 どうしてそういう発想になってしまうのだろうか。ってか、じゃあ、智論さんじゃなかったらいいワケ?
「相変わらず初心ねぇ」
 煙を吐き出す。
「で、今日は何? 見たとこ、サボったみたいだけど」
「はぁ」
「サボりはダメよぉ。勉強はした方がいいわよぉ」
「ユンミさんの口からそんな言葉が出てくるとは思いませんでした」
「あら失礼ね」
「ひょっとして、意外に高学歴だとか?」
「高校中退」
「そうですか」
「あ、今、バカにしたでしょ」
「してませんよ」
「いいえ、したわ。したに決まってる。アタシの目は騙されないんだから」
 乗り出しながら煙を吐き出す。
「言っちゃなんだけどねぇ、アタシだってそれなりにイイトコの高校には入ったんだからね。中学ん時なんて学年一位二位を争うくらい」
「それがどうして中退?」
「いろいろあンのよ」
 薄汚れた窓を見上げる。
「唐渓みたいな私立。でも唐渓ほど偏屈ではなかったかな」
「そう言えば、ユンミさん、ここら辺の人間じゃないって言ってましたよね。県外の人間って事ですか?」
「まぁね」
 美鶴も出身は岐阜だ。珍しくはないだろう。
「岐阜とか三重県とか?」
「もっと遠く」
「どこです?」
「ヒミツ。知ってどうすんの?」
「いえ、別に」
 知りたいと思ったワケではないが、詮索する以外にする事もない。勉強する気にもなれないし。
 なんだか、暇持て余してる専業主婦みたい。主婦になんてなった事もないけれど。
 まだ学校終わる時間には早いよなぁ。今ならその辺りブラついても、誰かに見つかる心配はないのかな。
 アパートの周辺は古びた街だ。学校が終わったからと言って唐渓の生徒が寄りつく事はないだろう。だが聡と瑠駆真の事だ。あちこち探しまわっているのかもしれない。だとしたら、どこにいても危険なのではないかと思われる。
 お腹空いたな。
「ユンミさん、お昼食べました?」
「途中の喫茶店で掛け込みのモーニング。いいわよねぇ、この辺りはモーニングが十一時とかまでやってるんだから。この文化はぜひ全国に広めるべきだわね」
 缶ビール片手に力説する。
「何? アンタ、お腹空いたの?」
「空きました。まだ学校が終わる時間には早いし、ちょっとコンビニ行ってきます」
 言って、のそりと身を起こす。
 風呂場へ向かう。風通しのあまりよくない環境では、夜中に洗ったTシャツはまだ乾いてはいない。仕方なく部屋へ戻り、壁に掛けてある唐渓の制服に手を伸ばす。
「この時間なら大丈夫ですよね」
「気にするんならこんなトコロになんて居なきゃいいのに」
「他にアテもないので」
 制服を手に再び風呂場へ。扉を閉めても摺りガラスなのでなんとなく見えてしまうが、ユンミの目の前で素っ裸になるよりかはマシだろう。一応相手は、考えようによってはオトコ、なワケだし。
 ん? ひょっとして今の私、オトコと一緒に暮らしてる?
「なぁに? まだ逃げ回ってンの?」
「でなきゃこんなトコロにはいません」
「こんなトコロとは失礼ね」
「撤回しましょうか?」
「嫌味」
 フンと鼻を鳴らす。
「逃げてたって、なんの問題解決にもならないわよ」
「逃げてません。自分の身の安全を確保するための対抗策です」
「効果は?」
「いまいち」







あなたが現在お読みになっているのは、第19章【朝靄の欠片】第2節【再びボロアパート】です。
前のお話へ戻る 次のお話へ進む

【アラベスク】メニューへ戻る 第19章【朝靄の欠片】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)